つつがなくそつがなく

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宗教と家事育児

宗教の勧誘のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

はじめに

全ての宗教を敵対視しているわけではありません。筆者はごく一般的な仏教徒です。
熱心な信心をしている方には不快に思われる記事かと思います。

 

気になる記事

統一教会の元信者で今は脱退している有名人に直撃インタビューするという記事がYahooに載っていた。

 

news.yahoo.co.jp

 

本人の希望なく、もう脱退してる人にわざわざ波風立てるマスコミ側の無頓着さは辟易するものがあるが、
文末に気になる文が載っていた。


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入信のきっかけは息子の難病だったという。また入信中の戸惑いも次のように綴られている。

《たとえ子どもに熱があっても、夫が行くなと足止めしても、家庭に波風が立とうとも、なんとしてもここに来ることが信仰ですとまで言われると、どこかにためらうものがあった》
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一般人からすると「そりゃそうだろう」と言う感覚。

疑いを持たない方が不自然だ。

 

宗教活動、家事育児のバランス

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育児、家事を犠牲にしてまで一心不乱に捧げる事が信仰という解釈が正しいなら、極めて自己中心的な教義だ。

そんな教えを説く神など信じるに値しない。


もし神様が実在するとして、もちろん人間の頭では理解できない相手ではあると思うが、
「家事育児をしっかりやりつつ余裕のある時に我に祈りを捧げよ」というくらいの常識的な神様じゃないと到底祈りを捧げる気にならない。

 

家事育児をほったらかして祈りを捧げていたら「いやそれは後で良いからまずは家事育児をせよ」と忠告してくれる神(教え)でないといけない。

 

そういった事から離れた生活をするのが僧侶なので百歩譲って出家してるなら良い。

だが子を育てる親であるなら僧侶であっても祈るより先にやる事が有る。

 

いくらこの世があの世へ行くときの修行の場だとかそんな事を言われても、
目の前に病気で苦しんでいる子供を置いて教会だが寺だかに行く者は問答無用で愚か者だ。

弁明の余地など無い。

 

宗教は自由。どの神を信じようと勝手だが、親の責任は勝手では済まされない。
少なくとも1人立ち出来るようになるまでは子供>神でなければならない。

 

 

邪教かどうかの見極め

霊感商法のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

邪教かそうでないかの区切りは難しいが、ハッキリしているのは親の責任を越える犠牲を強いているなら間違いなく邪教だ。
その犠牲で子が死んで、神はその子を救ってくださるとか言われても信用してはいけない。

 

救うべきはあの世ではなくこの世だ。

この世の管轄は人間だ。あの世に行ったら初めて神様にお願いしよう。

この世でその子を救えるのは神でない、保護者だけだ。

 

 


子が病気なら行くべきはまずは病院だ。宗教施設ではない。

グッズを買っても病気や怪我は治らない。
医者に診断してもらい、人類の医学では治せないと断定されてから祈った方が良い。
「祈るのが遅かったな。今さら来てもおせーよ。」なんて言う幹部が居る宗教はすぐに脱退した方が良い。

 

 

データ>教義

戦略・策略のイラスト(男性) | かわいいフリー素材集 いらすとや

信じるべきはデータだ。教義を信じても良いがデータは裏切らない。

もし医者に見放された患者がその神の奇跡によって救われたというならその宗教団体はきちんとしたデータに基づいて説明すべきだ。

 

反対にその宗教の信者が病死、事故死0なら信じても良いだろう。でもそんなわけは無い、そんなデータが出されたらそれはカウントの仕方がおかしいだけだ。

そんな宗教団体はやめた方がいい。


犠牲とか信心とか功徳とか色んな表現がされているが、それらは可視化出来ない。

願いが叶わなかった時に疑うべきは犠牲の量や質ではない。
解決に向けた現実的な努力の量と質だ。

 

そして、ベストを尽くしても叶わない願いが有る事実も受け入れなければいけない。

 

ちなみに仏教では願いとは叶わない物である事を理解する事が救いとしています。仏教の話は以前、般若心経の記事で書きました。

 

ghayabusalive.hatenablog.com

 

 

神は居るか

 

神は居るかと聞かれれば筆者は分からないと答える。
宇宙人と同じで断定は出来ない。

 

もしこの宇宙を作った驚異的な力を持つ存在が居るならそれは神と呼んで良いだろう。
だがそんな存在が地球というちっぽけな星に住んでいるちっぽけな人間1人を救ってくれるかは別問題だ。

現に毎日罪の無い人が大勢亡くなっている。

 

世界を作る力、破壊する力は有っても病気を治す力は無いかもしれない。
得手不得手が有るかもしれない。担当が有るかもしれない。

 

祈ってれば万事OKというのは他力本願の範疇を越えて堕落に近い。
祈るだけで家事育児をしない人間が幸せになれる訳がない。


何もかも捧げないと救ってくれない神なんて「しみったれ」だ。

 

 

さいごに


これ以上書いても同じ内容を表現変えて言い続けるだけなのでやめておく。

 

宗教そのものの性質は善だと思う。

死に解釈を与え、死の悲しみを受け入れやすい物に変換させる。

自然の恵みや人の縁に意味を与え感謝を促す。

同じ宗教を信じる人と人の間では友好的に作用する。

 

 

どの神を信じようと自由だが、何にしても宗教は日々の生活のゆとりの中で行われるべきだ。
家族が苦しんでいるのなら手を合わせるより先にやる事がある、出来る事が有る。

 

安倍さんを射殺した犯人は度が過ぎる献金を求める統一教会によって生活が破綻した事を動機とする供述が見られた。

あの犯人を庇う気など微塵も無い。

筆者は安倍さんが日本にとって大変な功労者だと思っている側の人間だ。

 

生活費や養育費までお布施にしてはいけない。
どれだけ犠牲にしているかを信者同士で競ってはいけない。

 

話が逸れるが宗教戦争なんて物も愚かだ。

神が居るとして、その神の名がどうとか教えが違うとかの理由で異教徒を殺して良い訳が無い。そんな事を神は望まないだろう。

人を救うべき宗教が悲劇を生んではならないと筆者は思う。


おしまい。