性別に関して子との向き合い方(令和版)について書く。
最初に。LGBTを差別する意図は有りません。
どう向き合う事が大切かを頭の悪い筆者なりに考えたというお話です。
今朝めざましテレビを見ていて「大きなリボンが流行っている」という特集をやっていた。
どうという事はない。
40歳のおじさんからすると非常に関連性の低いニュースだ。
ただ膝でごはんを食べている次男(2歳)が
「リボンかわいいねぇ、次男くんも付けたい」みたいなことをたどたどしい口調で言った。
次男の発言に深い意味は無いだろう。
性自覚はまだ曖昧だし、リボン=かわいい=自分も欲しい、それだけだ。
(性別の自覚というのは育て方にもよるが一般的に2歳から始まるそうだ。)
次男の発言を受けて長男が「リボンは女の子じゃないとしちゃいけないんだよ」と言った。
4歳の長男は完全に自分は男、次男も男だと認識しており、
これが筆者の生まれ育った昭和だったら「そうだね」と言われて終わりだったと思う。
だが今は令和だ。2020年代だ。
別に誰がどういう格好しても良いじゃないか、自分らしく生きようという時代だ。
LGBTであるという事と人間1人の評価評判は無関係であると認識されている時代。
(もちろんシンプルにリボンが好きという男性が居たって何の問題も無い。)
そんな中でハッとさせられる長男の発言だった。
一応自分なりに性差別するような子にならないような教育をしてきたつもりだった。
おそらく今日の保育園でもそういう教育がなされているだろう。
スカート履いてきた男の子が居ても先生はイジったりしないだろう。
筆者の対応はというと
「聞こえなかったフリをした」だった。
そこには親として男の子はこうあって欲しいという気持ちが現れたのだと思う。
性差別はするな、誰がどういう格好しても良い、本気でそう思っている。
だが自分の息子にはリボンを付けて欲しくないという気持ちが出てしまった。
筆者自身が女装に興味が無いし性的な興味が女性にしかないし自分は女性だという認識を持った事がない。
他人は他人、好きに生きれば良いと思っているが息子は他人ではない。
それ故に出た感情だったのだろう。
もし息子が今後自分がLGBTであるとカミングアウトしてくれたらそれは受け止めようと思っている。
まずカミングアウトしてくれた勇気と親への信頼を称えるべきだ。
だが親というのは複雑なものだ。
差別はいかんと言いながら自分の子は普通であって欲しいと願ってしまう。
(普通という表現が不適切と思われる方が居るかもしれないが単に筆者の語彙力が無いだけなので許してください。)
「男の子でもリボンを付けていいんだよ」
すぐにそう言えれば良かった。
言えなかった自分を反省している。
普段、叱られて泣き続ける息子達に「男がピーピー泣くな」とか「パパが居ない時はママを守るんだ、だから強くなれ」とか
男子たる者こうあるべきという教育は自分に深く根付いており息子達にもしてしまっている。
男であろうと女であろうと強くあれ、というのが令和版と筆者の考えを融合させた形だと思う。
強いの定義が曖昧だが自立し、他人を助けられる人になって欲しい。
(喧嘩や成績の話ではなく勇気の話だ。)
どう向き合えば良いか正解は分からないがこれからも考え続けるのだろうと思う。
おしまい。
余談であくまで筆者個人の考えだが
性差別発言に対し、昨今ツイッターのように「差別はいけない!!」と声高に叩くより、
「いいじゃねーか別に。好きすれば。差別とかダセーよ。」という私は他人の格好に興味ねーよというスタンスを定着させる方が平和な気がする。
LGBTにスポットを当てすぎる事を全てのLGBTの人らが望んでいると思えないからだ。
人は「普通」に流される。
ならば普通という概念の中身を変える方が良いと思う。